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「キャリアの点と点は、振り返ると線でつながっている」-長田 新子氏が語るマーケターとしての“これまで”と“これから”

 

一般社団法人マーケターキャリア協会 (MCA) は11月7日、都内にて、マーケターのキャリア育成を目的とした「第二期MCA道場」の第3回講座を開催した。

 

 

今回の講師は、一般社団法人 渋谷未来デザイン 理事/事務局次長 NEW KIDS 株式会社 代表/一般社団法人 マーケターキャリア協会 理事の長田新子氏。MCは代表理事でインフォバーン 代表取締役社長 田中 準也氏が務めた。

 

 

長田氏は、20代後半からマネジメント経験があり、同氏なりのリーダーシップやマネジメント、プロフェッショナリズムを持っている。かねてより親交のある田中氏は、長田氏のことを「戦略立案からエクセキューション(実行)のところに強みがある。」と評する。

長田氏はこれまでRed Bullをはじめ、ほぼそのキャリアを外資系企業に身を投じ、広報・マーケティング職を歴任。その後独立して現職に至る。

 

 

昨年には初めて書籍「アスリート×ブランド 感動と興奮を分かち合うスポーツシーンのつくり方」(宣伝会議 刊)も著した。

長田氏は、自身のキャリアの過去から現在、そしてこれからを、「Society5.0」のステップになぞらえて、5段階で語り始めた。

 

 

友達とアニメに囲まれて育った幼少期

大学の教師を両親に持つ長田氏は、高校2年生まで神奈川県横浜市で生まれ育った。休みなく研究に打ちこむ両親の姿を見ながら「仕事って何なんだろう。」とずっと思っていたという。

当時は集合住宅に住んでいたこともあり、学年を問わず近所の友達と過ごし、食事も一緒にするとことも多かった。仕事で不在が多かった両親よりも、友達と一緒に過ごした時間のほうが長かったそうだ。

漫画が好きで、一人でいるときは大体漫画を読むか、絵をかきながら過ごしたという長田氏。

自宅には次第に漫画の雑誌や単行本が溜まり、友達への貸し出しサービスもしたことがあったという。その後アニメにも夢中になり、「将来はアニメ関係の仕事をしたいと言っていたことがある。」(長田氏)ほど、空想の世界に惹かれていった。

田中氏は、「周りを見ると、マーケターの人は、凝り性で、オタクで、一人遊びが出来る人が多い気がする。」と長田氏の話に自らのコメントを添える。

中学校を卒業した長田氏は東京の女子高に通うことになる。この頃両親の仕事の都合で東京へと転居し、「週末は渋谷のセンター街などに通って遊んでいた。だいぶ大人ぶっていた時代だった。」と振り返る。ただし学校にはまじめに通っていた。

大学生になり、バイトと遊びで時間を費やしたという長田氏。銀座のプランタンでアルバイトをしながら色々なかっこいい大人の姿を見て、刺激的な毎日を過ごす。そして音楽をきっかけに英語にも興味を持ち、長期休暇には海外留学を繰り返す。

やがて就職活動が始まり、就職試験の集団面接を受けた長田氏は、全員が同じ色のスーツを着て並んで座っていることに強い違和感を得る。そして就職活動を止め英国に留学することを決意する。このことに両親は反対をするどころか、勉強をする気になったと思い喜んで長田氏を海外に送り出す。

「留学の生活は楽しかったが、周りの友達が就職して頑張っているのをみて焦りもあった。」と振り返る長田氏は、英国では気になる学校への短期留学を繰り返しながら各地を転々として1年くらいを過ごす。

そのような中で音楽やファッションなど文化的なものに興味を持ち生活を楽しんでいたが、気が付いたらお金も底をつきはじめてしまい、働くことを決意し帰国する。

就職活動を始めるも、新卒のタイミングを外した若者に対して、当時は選択肢が限られていた。そのような中、契約社員の事業部アシスタント職を募集しているAT&Tを見つけて応募する。面接に行くと、「明日からきてください」といわれてすぐに入社して配属になったのが、社員数名の小さな部署。入社して一週間は、上司に言われた資料のコピーをひたすら取り続けたという。

「英語の書き方がひどい。」といわれ、上司や先輩から最初の半年間は注意され続けたそうだ。

仕事の業務には、上司が使った後のミーティングルームの椅子をきれいに並べるというようなこともあったというが、「ここでは、礼儀や挨拶、仕事の心構え、ビジネス英語などを鍛えられた。」(長田氏)と、自身がShinko1.0「無我夢中時代」と定義する当時を振り返った。

 

BtoBから始まったマーケティングのキャリア

アシスタントを経て営業職に就いた長田氏は、その後プライベートでは結婚、出産を経て半年ほど育児休暇を取る。長田氏は、「自分が会社や同僚に対して、迷惑をかけているな。」と感じると同時に、仕事と家庭との両立の難しさを感じ、悩んだ時期があったそうだ。

だが、「恵まれた上司にチャンスを与えてもらった。」(長田氏)こともあり、やがてプロダクトマーケティング職に就任。その後現在につながるマーケターのキャリアがここから始まる。

ここでは、米国のプロダクトをローカライズして日本で販売するBtoBのマーケティング職を経験する。「自分の中で次に進みたいと感じた」この頃を、長田氏はShinko2.0「挑戦時代」であったと位置付ける。

当時はまだ通信は固定通信中心の時代であったが、これからは携帯電話だという考えに至った長田氏。友人からの誘いを受け、ノキアに転職する。ノキアでは母国フィンランドの製品を、日本の通信事業者に導入する立場でプロダクトマーケティング職を経験。

だが、入社して1年後、日本のモバイルインターネットのスタンダードがiモードに決まり、ヨーロッパの規格が負けてしまったことで、ヨーロッパの携帯電話製品の導入が出来なくなってしまう事態に直面し、チームは解体されてしまう。そして社内で転職活動を行わざる得なくなってしまい、元AT&T時代の先輩がいる広報部に転籍する。

当時は「なぜ私が広報に」と疑問に思ったが、「今思えばラッキーなことだった」と長田氏は振り返る。

広報の部署ではプレスリリースを自力で書いたり、同僚にニュースをピックアップして共有をしたり、メディア対応や記者発表を行ったり、社員向けのコミュニケーション活動を担当。この職に就いて半年後、管理者だった上司が転職し、長田氏は広報部長に抜擢される。着任して早々、年1回のグローバルトップ日本訪問による記者発表の仕切りを任されるという「恐ろしい」(長田氏)状況が訪れる。PRエージェンシーを活用し、錚々たるメディアと真正面から向き合った長田氏。「メディアに話してはいけないことが伝わってしまい、広がってしまったことで、グローバル本社から大変叱責を受けた。」というような失敗も経験したという。

「失敗したことは頑張って乗り越えるしかなかった。が、失敗することで次につながるラーニングがあり逃げたくなかった。この仕事ではとても鍛えられ、次につながるような経験をすることが出来た。」(長田氏)。

「フィンランドのオフィスにはサウナがあり、ノキアでは年に1回チームビルディングの一環で男女一緒にサウナに入るような機会があると聞き、びっくりしたことがある。」と当時のことを余談とともに振り返った。

その後はRed Bullへと転職。長田氏にとってのShinko3.0「情熱時代」へと突入する。今でこそ広く世に知られているRed Bullだが、当時はまだ立ち上がって間もなく、日本では全く知られていなかった。

当時長田氏はIT企業からも内定をもらい、Red Bullには断りを入れたものの、「僕たちの会社で仕事をした方が、ずっと楽しい人生が送れるよ。」と後の上司から強い誘いを受け、入社を決意する。

入社1日目にスーツを着て出社してみると、周囲から「どうしたんですか?」と驚きの目を向けられる。初めてのオフィスを見渡してみると、タトゥーを入れている人、髪を染めて金髪の人、チーマーのような恰好の人など、これまでの社会人生活ではあり得なかったような姿の人たちが働いている。長田氏は、「入る会社を間違えた。」と自身の選択を入社初日に後悔する。「マーケティング職にDJがいることに大きな衝撃を受けた」という長田氏。この新しい職場ではこれまであまり接したことがない人たちと、見たことがない仕事を目の当たりにするも、やがて時間が経つにつれて「この人たち面白いな。」という感覚に変っていく。

入社後しばらくして、それまで持っていたスーツをすべて捨てた長田氏は、「ビデオでニュースリリース(ニュースカット)を作りメディアに配信」したり、「ハイライト映像を作りMTVに販売する」など、当時一般的な企業ではあり得なかったマーケティング・コミュニケーションのキャリアをここで積むこととなった。

  

役職とは役割

「人に興味がある」という長田氏は、Red Bullの独特のカルチャーにも馴染んでいき入社して3年後、長田氏は当時二つに分かれていたRed Bullのマーケティング組織の統合を任される。

その結果、それまでは同じレイヤーにいて、お互い仲良くしていた同僚の上司となることになった長田氏。その同僚から「納得がいかない。認めない。」と直接面と向かって言われたという。長田氏はショックを受けるも、相手に対し「認めないといわれても、仕事はやってもらいたい。」ということをしっかりと伝えたという。

「友達関係では仕事はできない。認められなくとも役割を与えられて、この役職で自分はやっている。それを受けたから、その役割としてやっていくことを心に決めた。」(長田氏)という。

それまでは一緒に飲みに行ったりしていたというかつての同僚は、仕事以外のことでは一切話すことはなくなり、精神的に相当打撃を受けた時期だった。

このような経験をするも、自分をそのポジションに引き上げてくれた上司からは「自分の判断は間違っていない。」といい続けてもらったことで、長田氏は感情をコントロールし、流されることなく、自身に与えられた役割を待とうすることを心に決めたという。

Red Bullではマーケティング全般を経験することが出来たが、やがて現職で「商品を売る」ということを今後も続けることが、自身にとって良いのかどうかについて考えるに至った長田氏。同社のキャリアにおいて最後の2年間くらい悩んだ末、やがてShinko4.0「決断時代」を迎え、Red Bullの職を離れることとなる。

Red Bullを離れた長田氏は、半年間の渋谷区での新組織設立準備のためのボランティア活動を経て、誘いを受けた「一般社団法人 渋谷未来デザイン」という新しい組織の立ち上げをし、理事兼事務局次長に就任。当時、経営や日本の社会を学んでみたいという気持ちとともに、「渋谷」という日本が誇るブランドを自身が得たマーケティングのスキルをもってもっと世界に発信をしていくことに大きなやりがいを感じたという。

「住んでいる人が、シティ・プライドを持って、この街に住み、この街で働いてもらい、この街を発展させるために、民間の人に参画してもらいたい」と渋谷区の副区長から言われたことが、このキャリアを選択する決め手になった。

「マーケティングというよりは、何か新しいことにチャレンジをして、そういう中で自分がやってきたことが生かせるところがあるのかなというので決めた。」(長田氏)という。

 

点と点は、振り返れば線でつながっている

「ノキアの時も、Red Bullの時も、ほぼ誰も知られていないところから参加し立ち上げた。企業やブランドの看板があったほうがいいかもしれないが、自分の中ではなくてもそれがみんなに浸透して、そのうちに、ここと一緒に何かやりたいと思ってもらえればいいかなと思っている。」と、これまでのキャリアの共通項とその背景の想いを語る長田氏。最初は知られていなかった現組織においても、最近では「なにか一緒にやりたい」と、あちこちから誘いを受けるようになったという。また今では、Red Bull時代には会社で禁止されていて叶わなかった、社外での登壇や発信・交流活動も自由に出来るようになり、様々な出会いに感謝をしながら日々を送っているという。

そして現在、Shinko5.0を、長田氏は「超共創時代」と位置付けて、「社会と向き合う、可能性、仲間との共創」というキーワードのもと、書籍を出したり、ソーシャルデザインのイベント主催、クラウドファンディングで新しい事業を呼び掛けて賛同者から資金を募るなど、様々な活動を行っている。

最後に長田氏は、スティーブ・ジョブスの“Connecting the dots”を引き合いだし、「自分のこれまでのキャリアを振り返ると、線でつながっていることを感じているが、実際にそれをやっているときは線が見えない。今までやってきたことが相当つながっていることを感じている。今までお仕事でつながってきた方から“一緒に何かやりたい”というお話もいただいたりもしている。今は点と点でしか感じなく、無駄かもしれないと思うこともあるかもしれないが、皆さん信じて取り組んでいただくのがいいのではないか。」と、話を締めくくった。

ABOUT 野下 智之

野下 智之

ExchangeWire Japan 編集長   慶応義塾大学経済学部卒。 外資系消費財メーカーを経て、2006年に調査・コンサルティング会社シード・プランニングに入社。 国内外のインターネット広告業界をはじめとするデジタル領域の市場・サービスの調査研究を担当し、関連する調査レポートを多数企画・発刊。 2016年4月にデジタル領域を対象とする市場・サービス評価をおこなう調査会社 株式会社デジタルインファクトを設立。 2021年1月に、行政DXをテーマにしたWeb情報媒体「デジタル行政」の立ち上げをリード。